著者まえがき
| 『竜神の谷』 何度も何度も考えました。 このお話をまとめる役目を与えられた以上、やはり表題は「竜神の谷」であろうと。しかし、この文書が誰かの目にとまれば、破り捨てられるか焼き捨てられるかわかりません。さいわい、私はこのお話を書きとめるために十分な量の紙と、まだ文字を書けるだけの余力があります。 しかし表題を「竜神の谷」にしてしまっては、危険文書として破棄されてしまう可能性があります。だから、私の尊敬する人がしたように、この文書は書き上げるまで誰にも見せません。そしてできあがったら、その人がしたように偽のカバーをつけ、私の娘にだけわかるように表紙に書き、ひそかに託そうと思います。 まだ小さな私の娘が、いつかこの文書を見つけて、活用してくれることを願います。 この国がおかしいこと。どれだけの人間を踏みにじって成り立っているのかということ。頭のいいお前ならわかるはず。 私は今、死の床にあります。しかし数日前に私の前に現れた人が、たくさんの真実を教えてくれました。そしてこのことを書き残すようにとお願いされました。 何のために生まれてきたのか分からなかった私の人生の意味を、初めて教えてもらえました。私はこの文書を書き残し、後世に伝えるために生まれて来たのだと知りました。ならば、なぜその使命を捨てて死ぬことができましょう。死ねない。私はまだ死ねない。書き残します。安心してください、かえでさん。 私が初めてあなたに会ったとき、私は小さすぎてあなたがどういう人なのか、私とどういうかかわりのある人なのかわかりませんでした。それにすぐにあなたは死んでしまったし、どんな人だったのか知りたくても周囲から聞くお話が精一杯でした。けれど、あなたがいなければ、今の私はなかったのですね。知らなかった。知らなかった。 私の尊敬する人が、あなたのことをとても大事に思っていたので、私にとってもあなたは憧れの人でした。けれど、それだけではなかった。私にとっても大恩人だった。今まで知らなくてごめんなさい。そして教えてくれてありがとう。 数日前に私の前に現れたかえでさんは、私の娘を可愛いと言ってくれました。どんなに憎んでも憎み足りない男の血を引く子供なのに、可愛いと言ってくれました。聞いていたとおりの人です。私はそのことだけでも、この文書を書く気力が湧きました。たとえ残りの寿命を縮めることになろうとも、かまいません。 まだ小さな娘が、私が思いつめたように何か書いているのを心配そうに見つめています。大丈夫。大丈夫だよ。私はこのために生まれてきたんだよ。すごく嬉しいんだよ。自分がこの世に生を受けた意味を知る、それがどんなに嬉しいことか、いつかおまえにもわかるときが来るからね。 周囲にも、私の様子を心配してくれる者がいます。私の死期が近いことを知っている人たちです。しかし、死ぬ前にやりたいことがあるからと伝えると、涙をこぼして場を去ってくれました。今、私のそばにいるのは娘だけです。 何から書けばいいのか、数日間迷いました。 そう、まずは「竜神の谷」が確実に存在していたことを明記せねばなりません。竜神の谷は、数百人しかいない小国でありながら、独自の技術をもって大変美しい装飾品を作ることができることで独立を保っていました。この装飾品は「赤」を基調としていました。私も見たことがありますが、覗き込むとそのまま“魅入られて”どこかへ連れて行かれそうになるのではないかと錯覚するほどの美しいものでした。 それは宝石ではありません。鉱物でもありません。「竜神の谷」はその製法を門外不出とし、外部の人間との交流も極力絶ち、製品の質を保っていました。 竜神の谷には『竜神』がいるとされ、竜神の谷で作られる製品は『神器』と呼ばれることもあります。しかし中にはその美しさに魅入られ、財産すべてをつぎ込み、破産するという者も珍しくなかったのです。人をそこまで引きつける美しさは魔性と言ってもいいでしょう。それの呼び名にふさわしいのは『魔器』でしょうか『神器』でしょうか。しかし私は神器と呼びましょう。 このように閉鎖的ではありましたが、それはあくまで独自の技術を守るためでありました。彼らは争いを好まず、歌が好きで、大変穏やかな人種であったと聞きます。 しかしこの国に“緑青斑(ろくしょうはん)”がやってきました。外の国がこの事態に気付いたときにはすでに遅く、竜神の谷は滅びました。これによって竜神の谷の装飾品の製造法は永遠の謎とされ、国は緑青斑による汚染がおさまるまで完全に封鎖されました。 そして生き残った子供達の中に、ある幼い兄妹がいました。このとき8歳と6歳。この二人は竜神の谷の族長の子供たちでした。兄は妹の手を握り、何があっても守ってやると誓いました。妹は兄の手を握り返し、何があっても兄を支えついてゆくと誓いました。しかし、ごく単純な手違いで、二人は離れ離れになりました。 そして30年が経ちました。 お話はここから始まります。 |