10・出立




 ユースが泣き終えるまで、女性はじっと正座していました。やがて涙が枯れると、ユースは「顔を洗いたい」と言いました。

 「そちらに」

 女性はユースに手を貸そうとしましたが、払いのけられました。ユースは、決して怒りを治めたわけではないのです。ヒサギが死ぬ原因を作った、この女性を許したわけではないのです。
 ユースは洗面台を見つけて勝手に水を汲み、勝手に顔を洗い、口をすすぎました。女性はじっとしているだけで何も言いませんでした。ユースは水の入った桶を女性に投げつけました。やはり突き抜けてしまうだけで、女性はかわそうともしないのでした。桶が石の壁に当たり、水が飛び散りました。

 「水は大事にお使いください。外と違って、無限にあるわけではないのです」
 「?…外?」
 「はい。ここでは一日に使える水の量は決まっております」
 「ここ……どこなんだよ」

 ついさっき目を開けたばかりのユースには、自分がどこにいる状態なのかわかりませんでした。彼は急に怖くなり、部屋の内部を見て回りました。きれいな水の入ったカメがあります。さっき顔を洗うためにここから水を汲みました。それから自分が一ヶ月間使ったベッドがあります。トイレもあります。木製のテーブルの上には、例の非常食らしきものが散らばっていました。窓はありませんでした。
 そして、少し奥に広い部屋を見つけました。石でできた花壇のような囲いが中央にあり、そこを覗き込むと透明な水が溜まっていました。いつの間にか女性がそばに来ていました。

 「湧き水です。この囲いに溜まっている水が、一日分。ここからカメにうつして生活用水として使います。余分な水はここの穴から排出されます」
 「ずっと溜めておけばいいのに。頭悪い」
 「古い水はよくありません。常に新しい水にしておくために、古い水は流してしまったほうがいいのです。だから一日分の水の量は、いつも一定。使いすぎれば、また溜まるまでに丸一日かかります」
 「外から汲んでくれば……。そうだ……ここどこ」

 そう、ここは外の世界ではありません。

 「この部屋の名前はオアシス…」
 「この部屋の外は!!」
 「あなたたちが探検なさっていた通路…」
 「うそつけ!俺たちがあちこち歩いたときはこんな部屋なかった!!」
 「見つけなかっただけ。あなたは二度ほどこの部屋の前をお通りになりました」
 「まさか」
 「不思議な文字のプレートにお気づきになったでしょう?」

 ヒサギが、「カイェク先生なら読めるんじゃないか」と言った文字のことです。

 「…見た…通路のあちこちに…でも読めなくて…」
 「つい先ほどいらしたあなたのお父様…、なぜ、無理にでもこの部屋に入ってこなかったと思います?」
 「え?」
 「あなたが内側からこの部屋に鍵をおかけになったからではありませんか」
 「かけてない!」
 「お父様はこの部屋…オアシスに入る方法をご存知です。けれど内側から鍵をかけられているのを知って、無理にでも開けることのできる方法を探すためにいったんお帰りになったのでしょう。あの方の知識を以ってしても半日はかかる作業ですもの」

 ――いいか、明日だ。明日また来る。

 「俺は……」
 「あなたは目を閉じたまま何度もこの部屋から出入りしていたし、オアシスとは別の部屋からご自分で食料を見つけて、食べて生き延びておられました」
 「それはあんたが全部やってくれたことで…俺は何も…」
 「けれど事実です。あなたはオアシスの出入りを覚えて、食料庫から非常食を見つけ出しました。けれど目を閉じたままでは袋の紐を解くことができなかったので、剣で袋を切り裂いて中身を取り出して戻っていらしたではないですか。わたくしは少し手を貸しただけ」
 「剣なんか持ってない!!」
 「ではそこにあるのはなんなのです。あなたはずっとそれを抱いて眠っていたではありませんか」

 女性がベッドの上を指差しました。布でぐるぐるまきにされた太目の棒のようなものが置いてあります。ユースはそれがなんなのか知りません。なぜこんなものがあるのでしょう。布をとってみることにしました。中から宝剣が出てきました。外の世界で警察が必死になって探しているものは、こんなところにありました。ユースは暗闇の中で、ずっとこれを抱いて眠っていたのです。誰も知らないところにある部屋の、粗末なベッドの上で、小さく小さく丸くなって、毛布にくるまって。

 「その剣だけでも外の世界へ返そうと思ったのですが、どうしてもあなたがお放しにならないので仕方なくそのままにしておりました。しかし、指名手配にまでなるとは。わたくしの考え不足でした」
 「…覚えてない…」
 「…それは仕方がないことです。光も音も記憶も閉ざして、このまま生きるのをやめてしまわれるのではないかと思いました。しかしあなたは戻って来られた。水を飲み、物を食べることを選び、声を出すことに成功し、目をお開けになられた。記憶も取り戻した。人間として生きることをお選びになった」
 「別に選んでそうなったわけじゃないけど…」
 「あなたと同じようになって、そのまま死んでしまう人間もいるのですよ。または、動物のようになってしまうとか…もしくは…」

 女性はそこまで言ってやめました。あまりいい話ではないのでしょう。女性は「明日までここで待って、お父様にお会いになりますか?」と話を変えました。ユースは首を横に振りました。会わない、という意味です。
 このときのユースの心境は複雑で、表現しようの無いものでした。父を嫌っているわけではないのです。しかし、会えば何か…怖い思いをするのではと、不安げな表情が浮かんでいました(会えばヒサギの死を実感すると思ったのでしょうか)。

 「それより、ここを出て逃げる!!今すぐ!!」
 「この部屋で3年間時効を待つ、という手もありますのよ?ここはお父様以外には誰にも見つからない。外界から閉ざされた部屋…」
 「冗談じゃない!!」

 ユースはオアシスの中をかけずりまわり、マントを見つけてはおりました。これから寒くなってくるはずなので、少し古いけれど上着も見つけて着込みました。水筒も見つけて、水を詰めました。自分はこれからも怪我をするに違いないので、救急箱から傷薬と絆創膏をいくつか出してマントの内側のポケットに入れました。それから宝剣を腰につけようとしましたが、女性に止められてしまいました。

 「それは警察に返したほうがようございましょう」
 「どうせ俺指名手配なんだしいいじゃん」
 「まあまあ」

 女性は宝剣を手に取り「これが重要なのです」と、柄の部分に巻かれていた赤い布をくるくるとはがしてしまいました。そして「はいどうぞ」と剣をユースに返しました。よくわからないまま受け取ったユースでしたが、初めて手に取ったときよりも扱いにくさを感じました。どうも女性が取り去った赤い布に秘密があるようです。赤い布はよく見ると、触った者の手に吸い付くようにやわらかで、それなのに簡単には破れないほど丈夫にできているのでした。

 「この布がなければ、その宝剣はただの剣。まあ名刀ではありますけれど」
 「その布どうすんの?」
 「どうしましょうねぇ」
 「考えてないのに取ったの!?」
 「これはあなたの物だから、あなたが身につけるのが道理ですわね」

 女性はそう言って、赤い布をユースの額にハチマキのように巻きました。ユースは抵抗する言葉が出ないほど気持ちよく巻かれてしまいました。理由はよくわからないけれど、宝剣は警察に返すとして、武器はオアシスの中にあった別の剣を持つことにしました。宝剣には及ばなくても、十分名刀のようです。それから食料も持たなくてはなりません。
 ユースはオアシスの中から出て、食料庫へ向かい、一袋持ち出しました。ここでふっと思い出しました。

 「あれ?俺どうやってオアシスから出たっけ?この倉庫にもどうやって入ったんだっけ?」
 「わたくしがお教えした通りにプレートをなぞって、扉をお開けになったではありませんか。体が覚えていたのでしょうね」
 「プレート?」

 ユースが驚いてオアシスの壁を見ると、たしかに謎の文字が刻まれていました。カイェクには読めますが、“オアシス”と書いてあるのです。これではただ見ただけではここに内部へ続く扉があるとわかりません。ユースはなんとなく記憶をたどって、プレートに書かれている飾りのような文字を順番に触ってみました。壁の石と区別のつかないような、石製の扉が開きました。

 「お見事です」
 「なんか…なんか思い出した…」
 「食料庫も同じようにお開けになられました。わたくしがお教えしたやり方をあなたは一度で覚え、内側から鍵をかける方法までお覚えになりました」
 「お姉さんはこの文字が読めるの?」
 「お父様ほどではありませんが、読めます。明日お父様があなたに“この通路の使い方を教える”とおっしゃったのも、この通路の秘密を教えるということでしょう」
 「この通路の秘密って…まだあるのかよ」
 「探検しているときに、何度か行き止まりを見つけたでしょう?」
 「あった」
 「それ、行き止まりではありません。先に進める方法があるのです」
 「マジで!?なんでそんなこと知ってんの!?」
 「わたくしもお父様も、この通路を作った張本人の子孫ですので」
 「…父上の知り合い?」
 「知り合いとゆーかなんとゆーか。おそらくお父様はそれをあなたに教えて、この通路を使って逃げてほしいとお考えなのですわ。けれどわたくしがおりますゆえ、その必要もございませんわね。さあ準備もできたことですし、どこへ逃げましょうか」
 「あ、待った。父上になんか言っておかなくちゃ」

 ユースはオアシスの中から紙とペンを探し出して(それにしてもなんでもある部屋です)手紙を書くことにしました。しかし国語関係、作文関係は彼の最も不得意とする分野ですので、しばらく硬直してしまいました。「えーとえーと」と焦ったあげく「お姉さん書いて」と投げようとしました。女性は「自分でやんなさい」と突き放しました。ユースは女性の名前を聞いて、しぶしぶ書きました。


 翌日オアシスへやって来て、手紙を見つけたカイェクが驚愕したのは言うまでもありません。手紙には「父上え かえでと、行きます。バイバイ ユースより」と書かれていました。
 カイェクが驚いたのは、別に息子の文章力ではありません(すでにあきらめていたので)。死んだ人間の名前が書かれていたことに驚いたのです。

 ついでに見つけた宝剣を持って、少年警官のところへ行きました。少年警官はこの数日の間にすっかりカイェクに対しておとなしくなっていました。宝剣を持ってきたカイェクに対して平身低頭「お手をわずらわせて申し訳ございませんでした!」と土下座せんばかりです。
 少年警官は部下(宝物蔵へ案内してくれた人)から、カイェクが十年前の内乱で活躍した竜騎士隊の隊長だということを聞いたのでした。それ以来腰の低いこと。特に最初のころの自分の言動を、ことあるごとに必死で弁解しようとするのです。これをほとんど聞いていたセイに言わせると、彼は「言い訳好きなクソガキ」だそうです。

 「ええー、国を救った英雄に対して、その…大変無礼な態度を…知らなかったもので…何も聞かされていなかったもので…誰も言わなかったもので…」
 「国を救った英雄ねぇ…こんな言葉知ってるか?『女一人救えないで、どうして国が救えるの!』って」
 「知りません…」
 「戦争に行こうとする男に向かって女がこう言うんだ…なんかの劇で使われた有名なセリフなんだが…俺に言わせりゃ国救うほうが簡単だ」
 「はっ……?」
 「『国を救える男だって、女一人を救えるとは限らない』…そっちのほうが真理だ」

 帰り道、カイェクのそばにセイが寄り添いました。カイェクはセイにも手紙を見せました。セイはぎょっとした様子で叫びました。

 「お師匠様、これ!!」
 「女一人の業はそれほど重いんだ……」

 そう言ってカイェクはまたベッドに倒れこみました。